コラム

SAKE100の値付けから考える、今後の日本酒業界に必要なこと

百光

※画像引用元:SAKE100

SAKE TIMESの運営で知られるClearによる日本酒のスタートアップ「SAKE100」についてのインタビュー記事(下記)を読んで考えたことをつらつらと。

XD :「1万円超えでもまだ安い」日本酒の“ラグジュアリーな体験”で、SAKE100が切り開く未知なる市場

まず最初に誤解の無いよう申し上げますが、私は生駒さんの考えを否定するつもりはありません。やり方の是非はあるのかもしれませんが、少なくとも、日本酒を食い物にして金儲けをしたい人には見えませんし(そもそも金儲けしたい人は日本酒業界なんかに手を出さない)、どういう結果になるにしろ、停滞している日本酒業界にとって何らかのインパクトを残すことは間違いないと思うので。

かといって手放しで肯定する気もありません。どうしても違和感というかモヤモヤが残るんですよね。それは何なのか。一言でいうなら「中身が伴ってるのか?」という懸念です。

中身が伴っているか

実際に飲んでいないのでSAKE100のプロダクトについて語る権利は本来ないんですが、少なくとも今回のインタビューからは中身に対する情熱やこだわりのようなものを読み取ることができませんでした。

高い値付けをするのは全然良いんですよ。それで日本酒全体の価値が上がっていくとすれば、素晴らしいことです。ただ、それは中身が伴ってこそです。

最高級を謳っておいて仮に中途半端なプロダクトであった場合、それは日本酒を貶めることになります。「なんだ、何万円もしたのにこんなもんか」と思われた時点で負けです。その銘柄の評判が落ちるだけならご勝手にどうぞですが、日本酒全体を代表してフラッグシップを標榜するのであれば、それは許されません。

まあね、飲んでないですからわかりませんよ。あくまで「そうだったら嫌だな」という懸念です。

価格ありきのマーケティング

通常、プロダクトアウトにおける値付けというのは、まず売りたい製品があって、その原価やコスト、人件費などに適正な儲けを上乗せして算定されるものです。

生駒さんのやり方は逆。まず価格ありきでそこに合わせて、それに見合った製品を作っていく。富裕層マーケティングの方法論の一つなのかな、これはこれで面白いやり方ですよね。

ただ、怖いのは高価格=高級であるという付加価値だけにフォーカスしすぎること。それによって仮に中身がただの水道水であったとしても売れてしまう可能性があるんです。極論ですが。

分かりやすくするためにあえて嫌な書き方をすると、本質的な価値のわからない人が、値段が高いからという理由だけで、そこそこの酒を最高級と勘違いして有難がって購入する…そんな図式が脳裏に浮かんでしまうのです。

繰り返しますが、SAKE100の製品が美味くないとは言っていません。飲んでないから知らないし。むしろ、そうなってほしくないので心配になっているのです。

適正価格とバブル

SAKE100の戦略においては価格と中身が見合っているかを考えることに意味はありません。原価と諸コストや人件費から計算したら、それなりの儲けを乗せてももっと全然安くできるでしょう。では、なぜそうしないのか。

インタビューを読めばわかりますが、この製品は高額であること自体に意味があるわけです。つまり高級ブランドや高級レストランと同じく、高額であることはそれ自体がステータスであり、ブランディングに直結するのです。

そんな高いもの、店にも置けないし一体誰が買うの?という疑問は当然出てくると思いますが、ターゲットは富裕層で主にギフト需要を見込んでいます。そこを見誤ると、少々ずれた議論になりがちなので注意が必要。

いずれにしろ値付けが適正かどうかは顧客が判断します。つまり、SAKE100で言えば、いくら高額であっても富裕層がそれに見合った価値があると認めれば、その製品は売れるし、逆であれば売れない。

しかし、恐ろしいことに仮に中身がなかったとしても付加情報だけで価値を見出されてしまうケースがあります。

いわゆるバブル経済と同じ構造です。華美に着飾っただけのスカスカなプロダクトは泡のようなもので、顧客が本質に気づいたときにパチン!と弾けてしまいます。

SAKE100がターゲットにしている層を含め、日本酒市場全体を見ても、まだまだ日本酒の経験値が低い。ここから顧客の舌が育っていったときに、どういう判断が下されるのか。近い将来その時が来たら、この値付けの意味はまた変わってくるでしょう。

味の価値基準

さっきから書いてる「中身」「実力」「本質」とは一体なんなのか。それは「」と「品格」です。

味なんて個人の主観によるんだし、価値基準など存在しないという人もいますが、私はそう思いません。個人で楽しむ分には、それこそ好きなものだけ恣意的にチョイスすればいいですよ。しかし、マスにアプローチする供給側であれば話は別。

供給する側の人間が「人によって嗜好は違うんだから考えても仕方ない」と言い切ってしまうのは無責任です。それがまかり通るなら、適当な料理と適当な酒を適当に提供すればいいだけですよね。

でも、ほとんどの飲食店はそうしていない。できる限り美味しい料理を食べてほしいと思って努力を惜しまない。でも、そこに美味さに対する価値基準が存在しなかったとすれば、一体何に向かっていけばいいんですか?

味は数値で表せるものではありません。その意味で数学的な絶対値を求めるのは当然ナンセンスです。ただ、より多くの人が美味しいと感じる最大公約数が収まる領域は必ず存在しているのです。

酒の品格

酒に限らず、全ての制作物には品格が存在します。それは歴史であったり伝統であったり、生産側が長い時間をかけて築きあげるものです。そして、それがブランドの信頼性に直結していくのです。

その意味でSAKE100には積み上げてきた重みはありません。始めたばかりですから当然ですよね。それは仕方ないこと。これから時間をかけていくしかありません。

ただ、これがもしもマーケティングや目先のことだけを考えた事業だとすれば、そこには品がないと言わざるを得ません。金儲けが悪いこととは全く思いませんが、自分のためだけでなく社会のため、誰かのためという視点も併せ持っていないと品格は身についていきませんから。

個人が自分の感覚で酒を評価することが大切

真に品格があって美味い酒とは何なのか。明確な答えはありませんが、少なくとも精米歩合やスペック、鑑評会の評価で決まるものでないことは明白。当然価格でもない。

芸術に置き換えてみれば分かりやすいですが、例えば音楽で高級な機材を使って、グラミー賞を取ったからといって、それらの情報を知らない人がその曲を純粋に聴いてどれだけの価値を感じ取れるか。確かに賞というのは、自分で価値判断ができない人にとってはひとつの指標にはなりますが、その賞の審査方針や審査員の嗜好、スポンサーの意向でいくらでも揺れ動くものです。

要するに、大切なのは消費者が確固たる価値基準を持ち、審美眼を養うことなんです。

その点において、残念ながら日本酒の世界は全くもって遅れていると言わざるを得ません。いや、これは「日本酒」というよりも「日本」の国民性の問題のような気もします。日本人の多くは人気ランキングや行列のできる店が大好きですからね。基本的に村社会で右に倣えを良しとする価値観が幅を利かせている以上、周りに流されない「個」を確立するのが困難なのは致し方ないのかもしれません。

国民性について話し出すとかなり脱線しそうなので、ここでは控えますが、とにかく誰かが評価したものではなく、自分が良いと思うものをブレずに評価することが今後の日本酒の発展に繋がっていくと考えます。

そして、飲み手の経験値やレベルが上がっていけば品がなくツマラナイ酒は自然淘汰されていくはずです。SAKE100の酒にはそうなってほしくないので、ぜひ究極の「中身」の酒を作っていただいて世界の度肝を抜いてほしいと思っています。

なお、日本酒の価格については、以前、地酒屋こだまの児玉さんとお話ししています。こちらは、上を吊り上げるのではなく、下(普通酒や純米酒)の値段を適正にしていくという考え方。

どちらが正解ということではなく、いろいろなアプローチがあってよいと思います。大切なのは考えることと行動すること。

それではまた!