これを書いている4月6日現在、東京は桜が満開、数日前まで極寒だった気温もずいぶんと和らぎ、絶好の花見日和。
家の近くの石神井川沿いは桜並木が名物なので、ふらっと散歩にでかけたのですが、なんだかいつもより素直に桜がきれいだなあって思えるんですよね。昔は「桜?関係ねえよ、どいつもこいつも口をそろえて桜、桜って騒ぎやがってバカか」くらいの気持ちだったのに。自分も年を取ったのかな。
ゆっくり川べりを歩いて桜のトンネルをくぐり、顔を上に向けると空が見えないくらいびっしりと覆われた桃色の天井。そこから花弁がはらはらと舞い散る幻想的な光景を見ているだけで、日々の疲れを忘れさせてくれます。
周りを見渡すと、自分と同じようにゆっくり散策する老夫婦、空いた場所にレジャーシートを敷いて仲間と楽しそうに酒を飲む若者たち、缶ビール片手に一人で花を愛でる中年男性、お父さんに肩車されながら桜に手を触れようとはしゃぐ幼子、ひたすら満開の桜をカメラに収めようとするサラリーマン風の男性、桜などそっちのけで手をつないで仲睦まじく話すカップルなど。皆一様に幸せそうに見えるんですよね。
楽しそうな他人を見たら、まず羨み蔑むのが基本姿勢であったはずの俺が、彼らを見て微笑ましく思っている。これは一体どういうことなんだ。妙なむずがゆさ、違和感があります。以前は道端でイチャつくカップルなど見かけようものなら、すれ違いざまに放屁してやるくらいのヤクザぶりを発揮していたはずなのに。やっぱり自分の中の何かが変わったんだろうか。
いやいや、冷静に考えると、今の自分はいたって普通であって、以前の自分のほうが異常だったんじゃないかと、これを書いていて思えてきました。
以前は「何者か」になりたくて必死にもがいていました。具体的に言うとDJ・ミュージシャンとして大成したかった。もしかすると本当はミュージシャンじゃなくてもよかったのかもしれない。とにかく、誰からも認められるひとかどの人物になりたかったんです。
それは自分の中の欠損する何かを埋めるためだったのかもしれません。いつも、誰かに認められたかった。人から褒めてほしかった。しかし、そんなことで満たされる感情なんてその場限りで、根っこの部分はぽっかりと穴が開いたまま。数年前にDJを辞め、音楽で食っていくことを諦めてから自問自答する期間を経てようやくこんな簡単なことに気づくことができたのでした。
どうにも素直になれなかったのは、心の欠損など微塵も感じさせず幸せそうに見える人間が羨ましかったからなんでしょう。
無駄に人を羨むことがなくなった今はその欠損とやらが完全に埋まったのかと言われれば、そんなことはありません。以前と同じように、人から褒められたら嬉しいし、認められたい気持ちも残っています。
ただ、その感情を生み出す構造に気づいたおかげで、よくわからないモヤモヤに心が支配されることはなくなりました。ああ、まだ俺はこんな承認欲求にとらわれているのかと、客観視することができるようになったのは大きく変化した点だと言えます。幸せそうな他人を見ても変に羨むことがなくなったのは、やはりその「気づき」の部分が大きいんでしょう。
まあそれも含めて大人になったってことなのかもしれません。アラフォーのおっさんが今さら話すことじゃないですけどね。
ところで、花見客を見ていてどうにも納得いかないことが一つだけ。自分が見た限りでは、一人も日本酒を飲んでない!日本の花見には日本酒でしょうが!とまでは言いませんが、日本酒を啓蒙する立場の人間としては寂しい気持ちになったことは事実。
でも考えてみれば、酒を調達する際にわざわざ日本酒が充実してる酒屋にまで出向きませんよね。そこらのスーパーかコンビニで適当なチューハイかビールを買うのが普通です。
スーパーでもコンビニでも澪とかなら普通に売ってるので(澪は悪くないですよ、充分いい酒です)、そこからなんとか地方のさらにクオリティの高い地酒に繋げていけないかと考えています。大手には大手の役割があって、小さい蔵やそれを扱う酒屋はそれと上手にシンクロしながら日本酒の世界を広げていけたら、と思いますが、まあ、駆け出しの自分に何ができるのかは全く未知数です。
そんなわけでとりとめもない文章ですが、花見を通じて感じたことを書いてみました。それではまた。